学問の神様、菅原道真公を祀る須磨の天神様

 

道真公は九州太宰府に左遷された際、須磨の浦で波が高くなり航海を中断されました。その時、漁師達が網の大綱で円座を作り、お休みになられた事にちなんで創建されたのが綱敷天満宮です。



天神様について

とおりゃんせ、とおりゃんせ ここは、どこのほそみちじゃ

天神様のほそみちじゃ ちょっと、とおしてくだしゃんせ・・

学問の神様として知られ、各地に鎮座する天神さまですが、全国的に祀られるようになった菅原道真公の生い立ちを皆さんご存じでしょうか?

道真公は承和12年6月25日に京都でお生まれになり、小さい時の名前は阿呼(あこ)と申しました。道真公の祖先は相撲で有名な野見宿禰(のみのすくね)という人でした、野見宿禰から14代目の人を古人(ふるひと)といい、古人は光仁天皇様にお願いして菅原という姓を名乗ることのお許しを得ました。古人はよく学問ができましたので、大学頭(だいがくのかみ)という位につき、朝廷で色々の講義を致しました。それ以来、菅原家は学問の家柄として栄え、代々有名な大学者が出ました。

五歳になった阿呼は、お供のじいやと紅梅殿のお庭先で遊んでいました。丁度紅梅が美しく咲いていました、それを見た阿呼は短冊に『美しや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある』と5歳でありながら、立派な歌を作られたのです。

道真公はやがて33歳で文章博士となり、おじいさんやお父さんの様に、大学で講義する身分になりましたが、間もなくお父さんも亡くなられ、菅原家の重大な責任は道真公一人の肩にかかってきました。そしてその立身出世を心快く思わない人、ねたましく思う人が多くなってきます。

仁和元年、道真公は突然、讃岐守(現在の香川県)に任ぜられ、都を離れることを命ぜられます。 京都を離れて地方へ下ることは、学者の道真公にとって決して良い事ではありませんでしたが、道真公は『政治の事は始めてだが、力いっぱいやろう』と言って村人を親切に教え導きました。飢饉の時には米蔵を開いて救いましたので、村人は心から道真公をお慕いしました。その中、道真公の良い政治の評判が京都へも伝わり、京都へ呼び戻される事になったのです。

京都に戻ってからも立派な仕事をし、遂に醍醐天皇様から右大臣に任ぜられました。これは、当時左大臣であった藤原氏が余りにも我侭勝手な行いをするので、お若い醍醐天皇様のためを思い、父上の宇多上皇様が特に道真公に命じられたのでした。そして、藤原氏の力を抑えようとされました。このことが、藤原氏一門の怒りを招く事となります。藤原氏は何とかして、道真公を右大臣の位から落とそうと藤原氏一門の人々と相談し、道真公が天皇様に対して良くない企みをしているという様なでたらめを天皇様に申し上げたのです。 天皇様はそれを信じられて「右大臣の位を免じ、太宰権師に任ず」と命じられました。昨日まで天下を治めていた右大臣が、今日は遠い太宰府に流されるというのです。余りにもひどい藤原氏のたくらみに口惜しく思われましたが、道真公は素直に家族の人と別れて九州へ下られる事となりました。

苦しい長い旅路の果て、やっと太宰府に着かれた道真公は榎寺という所に入れられ、その日その日の生活に困りながらも不平不満を言わず、人を恨むこともなく、ただ詩や歌を作って苦しい心を慰めておられました。また、ある時は天拝山の頂上に登られ、国家の栄える事と天皇様のおすこやかな事を祈られ、そして自分の罪が無実であることを天に訴えられました。生活は貧しく、書物を読む火をともす油を買うこともできず、雨は漏るままで直すこともできず、本当に哀れな有り様でしたが、再びなつかしい京都へ帰りたいとの思いを胸に、心だけはいつも清らかにまっすぐでした。

59歳の時、とうとう病気で亡くなられました。

文章を作られては一代の文学者、筆をとられては日本一、よく書物を作り、文化を高め、また政治をとっては国のため、人のためにつくし、一生誠の日本の心を持ち続けられた道真公も、とうとう九州の太宰府で寂しく亡くなられたのです。この様に、清らかな誠心をもって、大きな功績を立てられた道真公をお祀りしたのが天満宮です。